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嘘について

嘘という武器についてのワタクシの考え。

生徒に問題行動があったときに調べぬくのがおれのお仕事なわけだけれども、
子供が最初から本当のことを言ってくれるとは限らない。

5枚、10枚、それ以上に、嘘を重ねてくる子もいる。

でも、おれは「嘘をつくな」とは言わない。

嘘はみんながつく。
思いやりの嘘、商売の嘘、夢いっぱいの嘘……。

そういった嘘は、化粧みたいなものだし、大人はみんなついているし、一方の悪質な嘘についても、だまされたら騙されたほうが悪いと割り切って、ヨロイを身に付けて生きているわけである。

それなのに、子供には一切嘘をつかせない。
嘘をついたことを執拗に責める。嘘をついたから特別指導にする。

そういう大人はおれは信用ならないと思っている。

自分はよくて他人はダメ。
そんなのは、ろくでもない人間だし、友だちもできないカワイソーな自分本位の人間にほかならないから。

じゃあ、それで学校でトラブルがあったときに真実を見出せるのか?

実際、いろんな子がいるので、嘘はいけない、が効く子もいるが、おれの場合は、関係生徒をバラバラにして話を聞く体制を敷いた上で、生徒のコメントをすべて記録して、論理的に嘘を粉砕する。そこは容赦しないで、大人の知恵を総動員しておそいかかる。

そこからは根比べとなるが、実態が掴めるまで徹底的にやる。
まあいいや、という顔を一瞬でも見せたら、真実が1km遠くへ逃げて行く。
だから、疲れた顔を見せたことは一度もない。

弱者が泣くことになると思えば、うやむやには到底できない。

執念と正義と論理の三本柱を軸に、その子の性格と状況に応じて、追い込むか、同情するか、だけはあらかじめ決めて臨む。

さて、

そんなワタクシにも、お前は絶対に嘘をつくな、と言う場合がふたつある。

ひとつは、空気が読めない、場が読めない、ひとの気持ちを理解するのが不得手な者に対してである。そういうタイプの人間は、絶対に嘘をついてはいけない場面で、自分の都合しか考えずに嘘をつき、のちに、周囲を激しく落胆させることになるからである。まずは、場が読めるようになって、それから使うべきだと思っている。

もうひとつは、手グセが悪い者の場合である。嘘つきはドロボーの始まりとはよく言ったもので、経験的に言えば、何度指導してもまたやる生徒については、たいがい、嘘が通ると思うところから、再び転落が始まり、数日後には、もとのドロボー人生に舞い戻っている。だから、そういう子には、徹底的に正直な言葉を求める。実際の気持ちや行動に則した正直で正確な言葉を求める。良い嘘であっても、まだ必要ないと思っている。

そんなこんなで、この一年を振り返れば、嘘とのバトルが印象に残るが、それを打ち破るたびに、学校と生徒、生徒と生徒が信頼で結ばれ、まとまって行った年でもあった。

卒業式、終業式まであと少しだ。

ポピュリズムという絶対精神の行方

基本的人権はとても大切だが、
基本的人権なんか頭にない連中とも、ぶつかりあって行かなければならないのが現実。

個人の尊厳という正義を敷くにも、場合によっては、力ずくで戦ったり、力ずくで守ったりしなければならない。

それが現実だと思うから、

トランプ次期大統領の言うことは極めてマトモだ、と思える部分がある。

ただ、ああいうビジネス畑のひとは、倫理観にとらわれない強みを駆使して、不平等で、差別的・煽動的で、我利我利亡者的なやり方を展開することになる。

そうして、今まさに、国際協調、自由貿易、人権侵害のない世界づくりといった、今までの理想が、テロと、アメリカの経済の弱体化をきっかけに現実によって覆されつつある。

そのなかで、われわれも覆す側につくのか、つかないのか、どうするのか。

また、教育界の人間として言えば、大人が、子供のいじめをダメだと言えないようなやりかたをすれば、子供社会においても、いわれなき差別、偏見、人権侵害が起きる。マイノリティを含む、いじめられっ子に甚大な被害が行く。先生の指導も、教科書も、日本国憲法前文も、文科省のメッセージも、信じるに値しない理想にすぎぬと、子供が判断する日もくるかもしれない。

一部の人間の人権を、生存権を、幸福追求権を制約し、もう一方の一部の人間の幸福を満点に近づける。それでよしとするのか、しないのか。

それらに答えを出すのが、現代を生きるわれわれひとりひとりにいま求められていることなのではないだろうか。

トランプ・ポピュリズムという絶対精神は、アメリカを自由にしてくれるかもしれないが、世界中を自由にするかはわからない。

自由を目指して、とんでもない不自由に転落したくなければ、
最悪の未来まで、ひとりひとりが考えて、自国の政治を動かしていくしかない。

戦後しばらくは、非常に平和的で協調的な良い時代だった、といつか過去形で語られる日が来ないよう心から願いたい。

東京オリンピックは町内会の運動会か

東京オリンピックの費用削減で揉めてますが、、、

おれの印象をいえば、

経費削減したいにしても、
お金をかけてちゃんとやりたいにしても、

都が投下した税金が、工事を通して都民に落とされることの効用がほとんど語られないことが不思議に思う。

工事関係者は、懐に入ったお金でモノを買う。
売れたほうは、余裕が出た分で買う。
それを繰り返して、やがて国民全体が豊かになって行く……というアレである。

オリンピックも公共事業のひとつ。

昭和の東京オリンピックだって、戦後の経済復興を刺激した。
オリンピックは、そういう役割も果たして来た。

そういう観点からいえば、

今回のオリンピックだって、国際社会が、行き詰まった日本経済にオリンピックというフロンティアをくれたわけだ。

それをいかに有効に経済的に使うか?

そういう観点がいちばん大事だと思うし、そこにしっかりと責任を持って臨むべきだと考える。

ところが、、、

スポーツ好きの一派と、節約が経済的なんだと信じている一派と。
負担、分担の話ばかり。

それはまるで、商店街もなく商店も出ないような、町内会の運動会の負担分担を話し合ってるような感じだ。

結局、この問題は、根本的には、イギリスのEU離脱や、トランプ大統領誕生と同じ。

理性よりも、目先の大衆感覚で進められている。

いちばんの考えどころは、

すでに都知事選の段階で失われていた感さえある。

無骨な武士たち

あいつのタメ口は許す。
こいつのタメ口は許さない。

そんな話を生徒から聞かされることがある。

大人になって久しいから思うのかもしれないが、
子供たちの判断はいつも極めて主観的で民主的でない……(笑)

しかも、これが個人的な感情に収まるものではなく、上級生から下級生まで、その許す許さない文化でピラミッドを形成していて、許す者どうしが助けを求めたり、手を組んで行動したり、許した者が許された者を想い、義憤から代わりに立ち上がったり。

これは、いわゆる元気がいいグループの生徒の結びつき方なのだが、
武士の時代というのも、実際はこういう結びつきの世界だったのではないかと思うのである。

だが、卒業後の社会は江戸時代ではない。

敵討ち、斬り捨て御免も通じない。

社会に出るためには、明治、昭和、平成と精神面を発展させていかければならない。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」から日本国憲法へ。

生徒が学校社会の陰で育む、「自分の上の人に従えられ、自分の下に人を従える」という世界から、民主憲法を中心とした平等な結びつきの世界へ引き上げてやらなければいけない。

相手は、無骨な武士たちだと思って、
タイムスリップしたつもりで未来の世界を懸命に伝えて行きたい。

高畑裕太君の事件について

地なのかキャラなのか?

何を言い出すか分からない2世タレント君。なんであんなやつがのさばってんだ?ってことも視聴率を上げる一因であったにちがいない。

それに便乗してバラエティにドラマに売り出していた母親、業界の人たち。

素人(社会人未満かつ芸未満)は素人としてちゃんと見なしてやるのも、社会人の正しい態度・眼ざしではなかっただろうか。

本人は責められて当然ですが、損害賠償と騒ぐ前に、彼に仕事を依頼した、社会人としての判断力にも疑問符がつけられるべきであろう。

母親から男の子へ教えることができることにも限界がある。

性のことは、先輩や仲間から学んで、父親と重ね合わせてたりして、自ら理性的な生き方を身につけるものと思います。

ただ、誰からも大事なことを教えられることがなく、忠告注意されることもなく、自ら学ぶ力も足りないとなるとこういうことになる。

社会人になる前の時間は、さまざまな角度から自分を知るためにあるのだと思う。

親や先生、友達もまたその助力となるためにいる。

その過程で、ひとは脱中心化する。

自分中心の生き方から、他人中心の世の中・社会で、自分の存在を確立するべきことを知る。

その本来の意義を忘れ、エスカレーターに飛び乗り続けたり、親や先生も飛び乗せ続けたりすると、社会人になってから再起不能な失敗をする。

若さというのは、希望に恵まれやすい反面、失敗への想像力が貧弱。失敗の想像ができないから、かように大胆になるわけである。

未成年のうちに、失敗を学ばせる力、失敗から学ばせる力。
それがわれわれ教師や親にも必要になる。

ただし、

完璧な若者はどこにもいません。

親しくし、信頼をし、分かり合う一方で、常に注意に注意を重ねなければいけない。

学校では、そう肝に銘じています。

小金井 アイドル めった刺し事件について

ファンがアイドルをめった刺し。

またか。

という想いだ。

10代、20代の人間のなかには、

「自分は、世の中の誰からも全く認められていない」

と思っている人間、特に男子が少なからずいる。

世の中、成功者の数だけ敗北者がいるわけで、若者であれば、受験、スポーツ、彼女、仕事、うまく行った者はひと握り。そのうえ、若さゆえ自尊心が高いから、いやがうえにも、認められていない感、劣等感が高じる。

そこで何に走るか?

女性に走る。
自分の価値を、好きな女性・憧れの女性に認められることを通して確認しようとする (そんなのは本当の恋愛ではないんだけどね。相手の人格を愛してる、には程遠いから)。

となると、

女性からすれば、自分に気をよせる男の何割かは、自分のミジメすぎる存在のすべてを背負って、すべてを賭けて、自分のもとへ来ている、と思っておく必要があるし、それに対して、NOをつきつけるということは、今までの否定の上塗り、場合によっては、さんざんな人生に、最大の試練としてのギロチンを落とす、ということにもなりかねない、そこまで考えておく必要があると思う。

アイドルという仕事は、エサを釣って男を呼んでおいて、最後にはギロチンを落とさざるを得ない仕事ではないだろうか?

がんばってるのを応援してくれるのがファン。それはアイドルが期待するファンの姿に過ぎない。
ファンはお父さんでもお兄ちゃんでもない。応援にとどまれない人間もかならずいる。

今逢えるアイドル・・・

まさに危険極まりない発想だと思う。
会うことよりも、会わないためにどれだけ考えてあるかがその子を守ることになるんだから。いろんなひとが地下でアイドルやってる時代なんだろうけど、よほどしっかりした事務所でもない限り、素人が安易に手を出すべきものではない。

ひとから認められない男というのは、ひとに優しくはできぬもの、ひとを認めることもできぬもの。その認められない憤りの大きさが、犯行の残虐さにもよく現れている。

やはり、10代、20代の想像力では分からないことは、周りの大人が教えなければいけないし、

やりたいことやるっていいこと!

ってだけでは、関係者も含め、大人が極めて無責任ではないかと思う。

アイドルのみならず、インターネット、SNS・・・学校でもたびたび思うのだが、危機感が足りないのは大人ではなかろうか。

Pray For Kumamoto

熊本の地震と被害に対し、

自分に何ができるか?

それがすぐに思いつかなくても、
熊本のために祈ろう。

しかし、、、それは偽善だとか、これは善だとか、賛同したり反論したり。そんなこと災害のたびに繰り返して行くんだろうか。

そういうことにニュースや紙面が割かれることじたい、
バチガイで見苦しい。

つまらぬ言動は控えるのが真人間というものであろう。

熊本のために何かしたい。
その気持ちをしっかりと持ち続けよう。

原発が無事だったぶんは本当に良かった。
この国に原発は危険だということも心に刻もう。

亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、勇ましくも温かい熊本のみなさんの無事と復活とを心から祈ります。

新体制発足

入学式を終え、新年度の授業が始まりました。

本年度から、生活指導部は共生担当部と名前が変わり、今年度その頭を務めることに相成りました。

共生担当部では、

いろいろな生徒が、それぞれの特性や個性を共感的に理解し、助け合い、協力しあって学校(白根開善学校という共生社会)を作って行くのを、「生活指導」を通して支援して行きます。

⑴学校生活を安全に送れるよう支援します。
生徒の命の安全を守るのが第一。

⑵生徒ひとりひとりが「善くなる」学校生活を支援します。
A 自分自身が「善くなる」学校生活を送る。
本校の特色教育=「集団生活のマナーを向上させる」を意識して学校生活に意欲的に取り組む。
B 他の生徒が「善くなる」学校生活を妨げない。
自分勝手な行動を慎む。
人が不愉快になることをしない。
暴力なし。いじめなし。

⑶学校生活がより充実するよう支援します。
放課後の部活や塾、イベントをさらに充実させていきます。

ということで、責任はさらに重くなりますし、教職員の内部統制や法令順守にも責任が生じますが、こちらのサイトにも顔を出しながら、自然体で頑張って行きたいと思います。

よろしくお願いいたします。

スポーツ選手の賭博 世間は冷たすぎないか?

われわれは、

世の中に出れば、社会性、暴力性、政治力、賭博性、みんな駆使されて、そのなかを生き残り、這い上がっていかなきゃいけない。

逆に言えば、ゼロから這い上がりたかったら、知らなくていいことなんて一つもない。

使える知恵はみんな手に入れなければいけない。

地の底に堕ちれば、そう思うものなのである。

賭博は法で禁じられているにしても、人間の資質において必要な才覚のひとつ。人間失格みたいに軽蔑すべきではないと思う。

賭博をしたからスポーツマンシップのかけらもない、という発言にも違和感がある。

スポーツっていうのは、

身体能力を競い合うとともに、騙し合いで、情報戦で、反則ギリギリで、ここぞのところは、経験を生かしての一発勝負の賭け。セオリーを逆手にとっての賭け。瀕死のフリをしての一発逆転の賭け……

スポーツマンシップとはいえ、自分を信じて、勝つために賭け続ける、監督と選手がそれを「正々堂々」やりあうってことでしょう。

それが人生と同じだからスポーツも面白いのではないか?

だから、賭けに偏りすぎて行く者も当然いるだろうよ。

おれの知ってるやつで、東京六大学の野球部の四番だったやつは、必ず試合前は徹夜でマージャンをして、意識朦朧の忘我の境地で、賭博師そのものになって試合へ臨んで、ホームランをカッとばしてた。

おれは、賭け事は得意じゃないし、特に好きでもない。賭け事をやめない父親を憎んだこともあった。

でも、世間のやり方ってのは、クリーンじゃないものを廃除してるだけ。既存のルールを自分たちは知ってたし、守ってたって。会長の発表だって、街の声だって、その程度でしょう。実際に八百長があってわれわれが騙されたわけでもないし。

もちろん、八百長に接近してしまった分はペナルティありとしても、悪意の有無など含め、八百長よりパチンコに近いなら、規則だ、規定だじゃなく、実情にあわせて処分を決めてほしいね。

野球やバドミントンのみならず、賭博にも謙虚に挑戦した勝負のバカには困ったものだが、おれは、ひとが本当に成人するのは30歳だと思ってて、20代は、10年社会での修業だと思ってる。

それもあって、世間は冷たすぎる気がしてならないのである。

バッシングの季節が過ぎたら、

犯罪者みたいにではなく、大物になって、また、最前線へ挑んできてほしい。

お願い

先生方には、6時半起床から11時消灯まで、生徒たちにつきっきりで見てもらってますので、深夜の電話相談は当直の先生に迷惑になります。

深夜の電話はご遠慮ください。

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